【活動報告】5月研修会

 5/13(土)に戸山キャンパス学生会館にて,5月研修会を行いました。今回は,講師に元暴力団組員で現在は少年院生の更生支援をされている遊佐学さんをお招きし,ご自身のこれまでの経験や支援にあったって心がけていることをお聞きしました。

 また,今回は2023年度が始まって最初の研修会ということで,多くの新入生が参加してくれました。その意味でも実りの大きい研修会になりました。

 遊佐学さんはご自身も犯罪当事者で薬物依存症当事者であったにも関わらず,過去の自分を客観的に理解されていて非常にわかりやすく,これから更生保護に携わっていく人にとって素晴らしい講演でした。

 

以下に本講演の文字起こしを掲載します。

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遊佐さん

「私は元ヤクザで薬物依存症になってしまい,結果として二回刑務所に入ることになってしまいました。私が犯罪・非行に走るようになったのは小学5・6年生の頃までさかのぼります。

四人家族の長男として生まれた私は,酒に酔うと気性が荒くなる父親と夜遅くまで働きに出ていて帰ってこない母親の下で生活を送っていました。今思えば,両親は私に対してとても愛情をもって接してくれていたと感じますが,当時はその愛情をうまくくみ取ることができていませんでした。例えば同じ食卓を囲んでいても,家族の中で自分一人だけ好き嫌いが多く,そういった些細な事ですごく孤独感・疎外感を感じていました。そういった家庭内で感じる孤独感を紛らわす理由だけではありませんが,小学校高学年になると徐々に喫煙や万引きといった非行行為に手を染めるようになっていきました。

 

最初のうちは,そういった行為が悪いことであることはもちろん認識していましたし,「怖いな」とい気持ちもありまた。それでも,「これをしないとハブられるんじゃないか」とか「なめられんじゃないか」といった気持から,その後も非行行為を続けていき,中学に入る頃にはどんどんと非行もエスカレートしていきました。

 

 結果的に私は高校に入ることができず,地域の暴走族に入りました。その後も,中学卒業から暴走族で悪いことばかりしていた結果,18歳の時初めて少年院に入所することになってしまいました。その時ばかりは,家族やその当時はお付き合いしていた女性に迷惑をかけているという実感があったので,「彼女が出所まで自分のことを待っていてくれたら,悪いことは一切やめて普通の生活をしよう」と心に決めて入所しました。

 

決意を固め出所した後,仲間が開いてくれた出所祝いで高らに更生を宣言した私でしたが,そううまくは行きませんでした。悪事から離れ,普通の職業について仕事をしていても,暴走族で悪いことをしていた時のスリルや高揚感が忘れられず,毎日がつまらなく思えてしまい,徐々にまた悪いことに手を染めるようになっていきました。

 

また,覚せい剤を始めたのも18歳の頃でした。子どもの頃に見ていた「薬物ダメ,ゼッタイ」のCMが強烈に印象に残っていたことと,父親が覚せい剤使用で捕まっていたこともあって,覚せい剤だけは絶対に手を出さないと昔から心に決めていました。しかし,先輩に誘われて一回だけと思って吸った時に感じたまるで違う世界に来たかのような高揚感に魅了され,2回目以降は自分の意志で使用するようになってしまいました。

 

覚せい剤を使用するようになると,生活のすべてが覚せい剤中心になっていきました。入所前からの彼女とは7年程交際を続けましたが,覚せい剤を使っていることが彼女にばれてしまったり,クスリ中心の自堕落な生活を送っていたりもあって,別れることになりました。他の友人とも徐々に距離ができはじめ孤独になるにつれて,「自分は何のために生きているんだろう」と感じることも増えていきました。

 

そんな毎日から脱却するきっかけをつかむため,まずは生活環境を変えようと,歌舞伎町の暴力団に加入することにしました。やはり手持無沙汰でいるとクスリに手が伸びてしまうという意識があり,暴力団組員になれば毎日忙しいので覚せい剤の使用頻度も減るだろうという考えからでした。ヤクザになってすぐは確かに自分が使用することはなくなりました。しかし,クスリの取引に関わっていくうちに自分も吸いたいという意識が強くなっていき,気づけば地元にいた頃よりも覚せい剤を使用するようになっていきました。

 

クスリの禁断症状はとても強烈で,私の場合は特に幻聴がかなりひどく出ていました。街の中を歩いていても,常にどこかから自分の人格を否定する声が聞こえ,現実と幻聴の区別もつかなくなっていきました。次第に疑心暗鬼になっていった私は,「俺を馬鹿にするようなことをいうやつは殺してやる」と包丁を持ち歩くようにまでなってしまいました。同じ暴力団の組員ですら私と距離を取るようになっていき,次第に孤立を深めていくことにもなっていきます。

 

そんな状態の私に声をかけてくれたのが,同じヤクザでクリスチャンの友人でした。私を心配した彼は,私を教会に連れていきました。彼は協会に入ると目を閉じて祈りを捧げ始めました。そして私も,半信半疑ではありましたが,見よう見まねで彼と同じように両手を合わせ,目を閉じてみました。すると不思議なことに,涙が滝のようにあふれ出てきました。その時は,絶え間なく聞こえる幻聴と止まらない涙で何が何だか分からなくなっていましたが,とにかくこれはすごいということで,後日また自分の足で同じ教会に行くことにしました。その日も前と同じように祈りをささげると,また大量の涙がこぼれ落ちてきました。これが,私が信仰と接点を持った初めての経験でした。

 

教会での強烈な体験で,完全に混乱していた私は覚せい剤をどうにかやめようと,一週間,使用を我慢することに決めました。一週間も我慢すればきっと幻聴も治って依存もしなくなるだろうという考えからでした。しかし,薬物の禁断症状は恐ろしく,一週間経っても,私を責め立てるような幻聴は止むことはなく,ただただ苦しみ続けることになりました。一週間後,「幻聴が消えないなら使っても使ってなくても一緒だ」と感じた私は,一週間ぶりに覚せい剤を使用してしまいました。覚せい剤というのはアルコールと違い,通常の場合は記憶がなくなったりはしないのですが,この時ばかりは記憶がなくなり,気づくと病院の集中治療室の上にいました。気を失った私は,なんと当時住んでいた五階建てのマンションから飛び降りていたのです。奇跡的に一命をとりとめはしたものの,骨盤の骨折と右足の粉砕骨折の大けがを負うこととなりました。これまで自分の命等どうでもいいと考えていた私でしたが,この時初めて心から死の恐怖に直面し,生きていてよかった,そして,神に生かされたと感じました。

 

入院は一年以上にわたって続きました。入院生活中はずっと,一週間に一度,妹が地元から東京まで来て私の着替えを運んできてくれていました。この時も,家族にすごく心配と迷惑をかけているなと感じましたし,これ以上迷惑をかけることはしたくないと考えていました。本当に絶望していましたし,生きている意味なんてないんじゃないかという思いも強かったです。しかし,退院後も足はなかなか動かず,働くことが難しかったこともあり,私は入院前と同じように悪いことをしながら覚せい剤を使う毎日に逆戻りしてしまいました。この頃の私は,いくらその時決意を固めたとしても,楽な方楽な方に逃げてしまい,結局は周りの人や社会に対して迷惑をかけ続けていました。

 

 事故から一年半後,警察が突然令状とともにあらわれ,私は薬物使用の罪で逮捕されることとなりました。入院している間も警察が顔を見せたことは一度もなかったので,戸惑いましたし,とても苛立ちました。刑務所に入ってからも,更生というよりむしろ次はどう上手くやるかを考えていました。普通に働こうという意識は全くなかったと言っていいと思います。

 

 そのような考えを持っていたので,退所後も入所前と同じような生活を続けることとなり,程なくして二回目の逮捕となりました。逮捕され,留置所にいる時,私は孤独と絶望のどん底に叩き落されました。入院している時は,今が一番つらいと本気で思っていましたが,今考えるとこの時期が一番つらかったように感じます。自分は死んだほうがいい,生きる価値がないと,自分を呪うように毎日を過ごしていました。

 

 そのような状態から私が更生することができたのはある一冊の本との出会いがきっかけでした。その本は『悪たれ極道,いのちやりなおし』(中島哲夫,2001)という名前で,ヤクザで薬物依存症だった男が信仰に目覚め牧師になって更生を果たすという内容でした。私と全く同じような道をたどっていた彼が,信仰によって人生をやり直すことができたという事実を知り,私は「これしかない!」と感じました。これまで何百回何千回と薬物をやめたいと思っては諦めてきましたが,今度こそ本気で神を信じることで更生を果たそうと心に決めました。これでも失敗したら,一生更生することはできないとも感じていました。

 

 それからというもの,私は刑期中,毎日欠かさず聖書を読むようになりました。聖書の内容はよくわからないことも多く,すべてを理解することは難しかったですが,それでも時々心に深く刺さる教えを与えてくれました。そのような生活を続ける中で,神に生かされているということ,そしてそれへの感謝の気持ちが徐々に芽生えるようになりました。以前は,「五階から飛び降りたときに死んでしまえばよかったんだ」というネガティブな考えが頭の中を支配していましたが,生かされたことへの感謝を感じるようになり,自分の心身を労わる心も生まれていきました。

 

 今思うと,私は悪いことをしていましたが,内心では自分のことをダメでどうしようもない奴だと卑下していました。だからこそ,覚せい剤を使って簡単に自分の心身を傷つけることに対して抵抗を覚えなかったのかもしれません。また,自分を大切にし,生きていることへの感謝を感じるようになると,周りの人がどれだけ自分を支えてくれていたかを理解できるようになりました。母親そして妹はどんな時でも,私を完全に見放すことはけしてありませんでした。以前の私は,彼らの手助けに対して感謝していなかったわけでは無いですが,「してもらって当たり前」という認識が心のどこかにあったように思います。しかし,それは当たり前のことではなく,支えてくれる家族がいたからこそ,今の自分があるのだという思いになりました。

 

 二回目の出所後は,毎週日曜日に埼玉県にある教会に栃木から二時間かけて通うようになり,それが生活の中心になっていきました。教会には自分と同じように,元ヤクザや薬物依存症の人もいて,彼らとはお互いの悩みを共有しながら,時には愚痴も言い合える仲間になることができました。また,ラーメン屋での仕事を始めることもできました。これまでは,ケガ等を理由に,体を酷使する肉体労働は避け,楽に稼ぐことのできる悪いことに逃げてしまっていました。しかし,「始めなければ何も変わらない,無理だったら諦めよう」という思いで,今回は一歩踏み出しました。ラーメン屋での仕事はすごく大変で,やめたくなることも多かったですが,続けていくうちにだんだんと料理や日々の発見が楽しくなっていきました。ラーメン屋での仕事は一年で辞めることとなりましたが,この経験は私にとても自信を与えてくれる出来事でした。それ以降は,元受刑者・薬物依存者を支援する団体等に住み込みで働いた後,現在まで続けている知的障がい者支援施設での仕事につきました。この十年の間で何個か職を変えてはいますが,

 

この十年の間で何個か職を変えてはいますが,何かをやめるときはいつも次何をやるか決めてからやめるようにしています。以前はその場の楽しさ・快楽だけを求めて行動していましたが,今では将来への目標や普通の生活を営む幸せを優先して考えることができるようになっています。これも私の大きな価値観の変化の一つです。

 

現在は,障がい者グループホームでの勤務のほかに,一般社団法人を立ち上げ,少年院を出た少年たちへの支援をしていきたいと考えています。また,NPO法人『セカンドチャンス』にも関わらせていただいていて,毎月東京と横浜それぞれで少年院の子どもたちと関わるっています。神に生かされているこの人生のなかで,私は何をしたいかを考えたときに,やはり,一番に自分と同じような道を歩んでいる人の力になりたいと感じました。自分のこれまでの経験を活かして,たった一人でも,誰かの人生にいい影響を与えられればと思って,今は活動をしています。」

 

 

質疑応答

 

Q. 私は児童相談所でアルバイトをしています。その中で,子どもたちから「帰る家がある先生は私の気持ちなんてわからない!」といわれることがあります。このような当事者と第三者の壁を感じたとき,遊佐さんはどのように考えますか?

 

A. 相手の気持ちを完全に理解することは,やっぱりできないですよね。だから「わからないよ。」とかえすことしかできないと思います。それでも,相手の話を親身になって聞く,その姿勢を見せることがとても大切だと考えています。もし,その時は反発してきたとしても,時間が経って冷静になったときに,「あの先生はちゃんと話を聞いてくれたな」「あの頃は先生に支えられていたな」と感じてもらえればいいかなと。その子たちがまた誰かを支えていく,そのきっかけになるのが理想ですよね。

 

Q. 少年院の少年たちと関わる機会があるとおっしゃっていましたが,今の少年と遊佐さんと同世代の頃の非行少年に何か差はありますか?

 

A. 全く違いますね。暴走族で捕まる子はほとんどいないですよね,今は。ほとんど詐欺の受け子とか窃盗とか。お金がなくて,ネットでつながって犯罪組織に加担するとか,一人で実行するケースが多い気がします。話してみても,とても素直な子が多くて,後,僕たちの頃と比べて,親が好きな子が多いですよね。身近な誰かへの感謝の気持ちを持てている子が多いので,そこから更生の糸口を見つけていければいいのかなとは感じます。

 

Q. 価値観も年も離れた少年達と,どういった話題を話すんですか?

 

A. 少年院に入っていたという共通項があるので,少年院出た後に食べたごはんの話とか,院にいるときの心情とかが多いですかね。意外と変わらない部分もあるので,話題に困ることはあまりないですよ。

 

. お話の中で,妹さんとお母さまへの感謝の気持ちは述べられていましたが,お父様とはいまはどういった関係性なのでしょうか?

 

A. 父は私の刑期中に脳卒中で倒れて車いす生活になってしまったんです。その頃からはもうしゃべることもできない状態でした。面会した時に,「俺のせいで親父は倒れたんだ」と思ったことをとても覚えています。出所後,私が更生した姿は少しの間見せることができましたが,父はそのあとすぐに亡くなってしまい,十分に親孝行をすることはできませんでした。なので,父への分も母に親孝行するつもりで,今は生活しています。

 

A. 少年たちと接していくうえで気を付けていることは何ですか?

 

Q. 寄り添ってあげること,見捨てないことですかね。たとえ相手が約束を守れなったり,再犯してしまったりしても,見捨てずに寄り添っていくことが大切なのかなと。変わりたいという気持ちを持っているのであれば,それをしっかり応援し続けることが大切だと思っています。

 

Q. お話の中で,「支援する側が傷つくようなことを言われることもある。」とおっしゃっていましたが,そのようなときはどういう風に考えればいいのでしょうか?

 

A. 支える側に余裕がないと,なかなかうまくいかないですよね。やっぱり疲れていると普段は傷つかない事でも傷つくことがある。やっぱり,支える側も自分の心身の健康を第一に考えることが一番ですよね。そのためには,一端当事者との距離を取ってみたりする必要もあるのかなとは思います。でも,それでは,寄り添うということができなくなってしまうので,支援もやはりチームでやっていくことが大切なのかなと思います。誰かと距離を取っている間に,誰かが寄り添ってやる,という風に支える側の負担を分散させていくことも大切かなと考えています。

 

Q. 一般社団法人を立ち上げられたということですが,活動の中でご自身の経歴が活きたり,逆に損したりしたことはありますか?

 

A. まだ立ち上げたばかりで大きな活動はしていないので,どちらもあまりないですね。しいて言えば,私のドキュメンタリーや講演を見て,インスタにDMをくれた人とかと会って話をしたりしています。その時にやはり私の経験があるからこそ話を聞きに来てくれているという側面はあると思います。というか,自分が当事者じゃなければ,こんな支援活動やってないですよ(笑)。だから,皆さんはこういった活動に自分から携わられていて,本当にすごいなと感じています。

 

三原さん(保護観察官)

「遊佐さん,今回は貴重なお話ありがとうございました。お話にも合ったように,私も千葉県の保護観察官として,やり直したいという気持ちに寄り添えたらなと思って日々仕事をしています。その中で,BBS会の皆さんにも,これまで以上にともだち活動に参加していただければなと思います。また,BBS会の皆さんの方からも,これやりたいというようなご意見があれば,応えていきたいと思っています。本日は貴重な経験をさせていただいてありがとうございました。」

 

大滝(会長)

「遊佐さんのお話の中で,自尊感情の欠落が話題に上がっていました。私の自分のともだち活動の経験の中でも,対象者の自己肯定感の低さが目に付いたのを覚えています。やはり,自分の存在を肯定していく気持ちが更生や生きるためには必要なんだなと改めて感じましたし,自己肯定感を養い育てることができるような教育であったり関わりであったりが大切だなとも感じています。」